不条理ゆえに我あり

2024年、パリオリンピックは日本中を熱狂の渦に巻き込んだ。前回大会の東京とは異なり有観客での開催となったため、会場の熱気や興奮、声援といった雰囲気や臨場感を再び味わえるようになっていた。
スポーツは素晴らしい。何故ならルールという厳格なものに縛られた抽象的な存在であるこれは、言語という垣根を越えて、文化・思想・宗教の異なる者たちと感動を共有できる代物であるからだ。サッカーのワールドカップのように、スポーツが代理戦争として捉えられてしまう例もあるにはあるが、試合が終われば勝者、敗者関係なく互いが互いを讃えあう言葉を超越したリスペクトの精神がスポーツにはある。
ところで、文武両道という言葉があるが、私は生徒たちに、わざわざ両道を極める必要はないと伝えている。これは、人間誰しもに得手不得手が存在し、それを補い合うために他者が存在していると考えているためである。ただ、これはもちろん「勉強が得意な人間はスポーツをやらなくてもよい」ということを意味しているわけではない。むしろ、中学校や高校で一度は運動部に所属してみてほしいと思っているくらいである。先述した通り、スポーツは言葉を超越したリスペクトの精神を学べるだけではなく、自分ではどうすることもできない不条理を学ぶこともできるためである。
かつて私は野球部に所属していた。所属する前年の夏の甲子園の決勝戦で斎藤佑樹投手と田中将大投手が2日間にも渡る熱戦を繰り広げた影響か、私の代の入部希望者は例年の3倍近くまで膨れ上がった。一学年だけで2チームも作れたのは、後にも先にも私の代だけである。
数の暴力とはよく言ったもので、中学3年生の春季大会では学校初となる都大会準優勝を果たした。都大会に出場したことすら久方ぶりであったため、中学野球部の躍進はクラスメートはおろか、先生、ひいては学校全体を巻き込んだ一大センセーションを巻き起こした。
さて、ここで筆をおけば、さも聞こえの良いサクセスストーリーのように読者に伝わるであろう。お忘れかもしれないが、この度筆を執ったのは美麗な成功談を執筆するためではなく、泥臭く、そしてどうすることもできない不条理体験を書き記すためである。では、私の身体的特徴から起こった悲劇の一部始終をご覧いただこう。
人数が多かった私の代は、良くも悪くも十人十色、千差万別の世代であった。人間性は然ることながら、運動部にしては珍しく体力面に関しても大きくバラつきがあった。第一に私が取り上げたいのは、努力では如何ともし難い基礎体力の差である。
3十路に突入した今でもそうだが、元来私は身体があまり強くない。走り込みをしたところで肺活量はさほど増えず、逆に肺気胸になり減る始末。それだけにとどまらず、自分の身体に免疫は存在するのかと疑ってしまうほどウイルスに弱く、月単位でも皆勤賞を取ることが難しかったり、スライディングに失敗し右足を骨折した際、本来であれば2ヶ月で完治するところ2倍以上回復に時間がかかったりと、この頃の最弱さを挙げていくと枚挙に暇がない。
道中のスライムにすら蹴散らされてしまいかねないほど弱かった中学生の私は、部活動が終わって家に帰るや否や玄関で寝てしまうくらい体力がなかったのに対し、レギュラー陣は部活動を終えたらその足でプロ野球の観戦に出かけ、試合の行く末を見届けてから帰路についていた。一つ付け加えておくが、中学校から最も近い野球場でも片道一時間はかかる。同じ練習をこなしているにもかかわらず一方は野球場まで飛んでいけるのに対し、もう一方は地べたに這いつくばるしかできない程、文字通り体力面で雲泥の差が存在した。
時には身体的特徴から勘違いが発生したこともあった。私は生まれつき肌が白く、それこそ友人やチームメートから「大病患っとるんか。」「縁起が良い蛇目指しとるんか。」といった、軽く畏怖の念すら感じられるような評価がなされていた。
人によっては何故か崇拝の対象になる程であった私の肌だが、意図していない形である人物の猜疑心を煽ることになる。恐らくどんな学校にもいることだろう。その人物とは、尊敬すらされていない部活動のOBである。
外野手登録であった私は春夏秋冬関係なく走らされた。バッテリーを含めた内野陣と比較すると基本的に守備機会に乏しいが、スタンドのある野球場で試合をすること自体珍しい中学軟式野球では、外野を超えた瞬間にホームランとなるグラウンドで試合を行うことが圧倒的に多いため、「トップスピードでどこまでも走り続けられる体力を付ける」という名目で、とことん走らされた。サボりたいという気持ちが脳裏をよぎるどころか脳全体がそれに浸食されていたが、一応提示された練習メニューはこなしていた。
そんな折、ある日例のOBから声をかけられた。特段咎められるようなプレイや行動をしていたわけではなかったため何故目を付けられたのか見当もつかず、当時の私は混乱状態に陥っていた。様々な可能性を模索していた私にOBはこう伝えた。
「お前肌が白いな。真面目に練習していないんだろ。罰走行ってこい。」
当時の私ですらおかしいと感じていたこの発言であるが、この理論が正しいとすると、ジャッキーロビンソンが現れる前のメジャーリーガーは、誰一人として真面目に練習していなかったということになる。上記のように、OBの発言が凄まじい暴論であったことに間違いはないが、こういった理屈もへったくれもないようなものを毎日のように浴びていると、不思議と慣れてきてしまった自分がいた。その結果、大抵のいびりやパワハラの類には何とも思わない防御力ツボツボ人間が誕生した。
一つ補足しておくが、私は何が何でも不条理の蔓延る世界に身を置けと伝えたいわけではない。ただできれば社会に出る前に一度、先述したような「自分ではどうすることもできない理由で糾弾される」という経験をしてほしいのだ。それを経験していると、「まぁ、あれよりはマシか。」と感覚を麻痺させることができるようになる。これには「堪え続けることで精神的にやられてしまう可能性がある」というデメリットも存在するが、この能力を磨き続けると「状況を俯瞰する」ことができるようになるというメリットも併せ持つ。
例えば先生や上司に必要以上に叱責されている時、今の発言はコンプライアンスに引っかかっているのではないかであったり、先ほどの発言と矛盾しているのではないかであったりなど、要するに相手の発言を総括し精査する能力を手にすることが可能となるのだ。カウンターパンチを確実に当てるために虎視眈々と失言や矛盾を狙っているイメージと言えば幾分か分かりやすいだろうか。数々の不条理や理不尽を浴びてしまったがゆえに、私は竈門炭治郎よろしく隙の糸が見えるようになり、不条理の申し子である彼の一端をも垣間見えるようになった。彼のように強靭な鬼にも決して屈せず、それどころか首を刎ねてしまうような強さを手に入れたいのであれば、件の世界に足を踏み入れるのも一興ではないだろうか。
ハラスメントという言葉がだいぶ市民権を得た昨今、不条理に対する風当たりは強くなり、それを経験すること自体は減少傾向にある。ただ、ゼロになることはないだろう。比較的無法地帯と化している部活動などで予め経験しておくことでツボツボのような防御力、もしくは炭治郎のような攻撃力を手に入れることは可能かもしれないが、精神が憔悴しきってしまっては元も子もないため、正直諸刃の剣であることは否めない。理想でもあり机上の空論でもあるが不条理や理不尽、ハラスメントなどが淘汰され、誰もが住みよい世界になることを祈るばかりである。
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